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2010年4月号 敗れざる者 再出発にかける想い
敗れざる者 再出発にかける想い 6
元 プロボクサー/現 鮨処いわ本店主
岩本弘行さん
人生の大きな転機を経験したアスリートの方々から、再出発への想いを伺うこの連載、今回は元プロボクサー、岩本弘行さんです。15歳でボクシングの世界に飛び込み、愚直に努力を重ねて勝ち取った日本チャンピオンの座も、気鋭の若手に敗れて陥落。その後、紆余曲折の末に見つけた寿司職人という道。腐らず、振り返らず、己を信じて夢を追い続けてきたその軌跡を辿ります。

夢を追いかけて上京し素直に懸命に拳を握った
夢は、いつ何時、どんな機会をとらえて人の心に棲み着くかわからない。そのときの年齢など、もちろんお構いなしだ。
中学1年生のとき、岩本弘行はたまたま点けたテレビを見て雷に打たれた。柴田国明のボクシング世界タイトルへの挑戦。鮮やかな1ラウンドKO勝ち。「俺もこれをやって有名になりたい」。もう、理屈も何もない。少年はボクシングと決定的に出会ってしまったのだ。
せめて高校くらい出ておけ、4回戦ボーイが関の山だぞ…。そんな周囲の言葉に耳を閉ざし、岩本は昭和47年春、中学を卒業した5日後に、チャンピオン柴田が所属する東京目白のヨネクラジムの門を叩いた。間もなく、ジムのつてで宝石加工の職を得る。作業場の裏に寮があった。「4畳半2部屋に8人で住み込みです。早く寝たいときは押入れにもぐり込んだこともありました。仕事は9時から午後5時半まで、指輪の台座にヤスリをかける地味な作業です。続かない人も多かったけど、ぼくには苦痛じゃなかった」
夢を追ってヨネクラジムへ集まる若者は岩本だけではなかった。多くの練習生をさばくため、練習時間は4部入れ替え制が取られ、時間枠が終わると帰される。岩本は夜6時半から8時までの時間帯で練習した。余りの人の多さに、リングに上がることはおろか、サンドバッグさえ叩けない毎日が続いた。「練習できるのは正味1時間。その間、鏡に向かってひたすらシャドウボクシングです。会長は名前も覚えてくれませんでした。パンチ力のある、お客さんを呼べそうな子にどうしたって目がいきます。ぼくにはそういう目立つところがありませんでした。でもこつこつやるのは好きでしたし、時間はかかるけど、いつか自分にもチャンスは来ると思っていました」
岩本は基本の繰り返しに没頭した。足の運び、ジャブ、ストレート。通常、練習生はこれを1ヵ月で終了すると次のステップへ移る。しかし岩本は数ヵ月経っても頑固にそれを繰り返した。
そんな岩本に目をつけた人物がいた。5人の世界チャンピオンを育てた名伯楽、松本清司トレーナーである。「松本先生は一生懸命やるボクサーが好きなんです。ぼくが基本動作を繰り返していると先生もそれを続けろと。ぼくもくそまじめでしたからジムが休みの日曜日もロードワークに出ていました」
一戦一戦を積み重ねて辿りついた日本王者の座
上京して2年が経ち、岩本は17歳になった。プロテストに合格し、ディフェンスの技術を持たない「特攻スタイル」のまま、デビュー戦で2ラウンドKO勝ちを収めた。
その直後、岩本は松本の推薦もあり、世界チャンピオンの柴田が湯河原で行う1週間の合宿に帯同を許された。「チャンピオンはぼくに、『ボクシングをだらだらやってはいけない』と話してくれました。ボクシングの現役は10年がひとつの目安、だから期限を決めてやれ、と。ぼくはその場でチャンピオンと約束したんです。18歳までに新人王に、23歳までに日本チャンピオンになれなかったらすっぱり引退すると」
翌年、岩本は全日本新人王のタイトルを手にした。試合はすべて判定勝ち。派手さはない。打ちつ打たれつ、しかし最後には勝利をたぐり寄せる。それが岩本のスタイルだった。
ここから2年余り、岩本は不遇の時代を過ごす。
(後略)
岩本弘行
いわもと ひろゆき●1957年神奈川県生まれ。中学卒業後、プロボクサーを目指して単身上京し、ヨネクラジムの門をたたく。地道な練習が実を結び17歳でプロテスト合格。派手さはないものの確実に白星を重ね、79年に日本J・フェザー級チャンピオンとなる。以後、8連続防衛を含む、計10度の防衛を果たすも83年にTKO負けを喫し引退。通算成績36戦25勝(4KO)8敗3分。引退後は宝石会社の営業職を経た後、寿司職人となるべく数々の店で修行を重ね、99年東京都板橋区に「鮨処いわ本(03-3962-7788)」を開業した。
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表紙写真:
東京空撮(松澤暁生)





