[エッセイ]旅の記憶 vol.44

描かれた場所を探して

松本 猛

東山魁夷(ひがしやまかいい)が『霧の町』という絵を描いたのは1971年、63歳の時だった。この絵は、かつてバルト海の女王とも呼ばれた、北ドイツの都市リューベックにあるホルステイン門を描いている。優れた絵は、描かれた場所への興味もそそるーー。

私が長野県信濃美術館・東山魁夷館の館長をしていた頃、魁夷の描いたリューベックの風景画がずっと気になっていた。どの作品にも言い知れぬ郷愁が漂っていて、それがどこから来るのかがわからなかった。町が生み出す雰囲気なのか、魁夷の内面から湧き出たものなのか。それを知りたくてドイツを訪ねた。ドイツは魁夷が20代の時に留学し、60歳を過ぎてから長期間にわたる旅をして、たくさんの作品を残した国だ。

いくつかの町で地元の人たちに魁夷の絵を見せ、描いた場所を尋ねたが、知らないという人が多かった。例えばネルトリンゲンという町のインフォメーションオフィスでは、〝中世の装飾が施された石壁に木のドアが描かれている絵(『石の窓』)〞を見せた。何人かが寄ってきたが、誰も見たことがないと口をそろえる。ところが、あきらめて外へ出ると、目の前の建物の壁の一部に、絵と同じ壁があるではないか。比較的新しい壁の一角に中世の壁が一部分だけ残されていて、古い木の扉が中世への入り口のように思われて夢中になってシャッターを切った。その時、自分の感覚がふっと魁夷と重なったように感じられた。それからは、不思議と魁夷が描いた風景を見つけられるようになった。

ローテンブルクで描いた『赤い屋根』は、高い塔から見た景色に違いないと、市庁舎の塔に上る。狭く崩れ落ちそうな回廊から周囲に広がる赤い屋根を見ると、小さな時計のある塔が目に入った。望遠レンズを通して見る。ファインダーの中に現れた構図は、絵の構図と寸分違わぬものだった。50年近く前、魁夷も同じ場所で望遠レンズを使ってこの景色を撮影したのだ。魁夷の心の動きが見えるようだった。

そして、『霧の町』のリューベックへ。魁夷は、学生時代にノーベル文学賞作家トーマス・マンに憧れ、留学先にドイツを選んだと思われるが、マンの故郷リューベックだけは訪ねていない。当時はヒトラーがナチス批判を展開するマンを国外追放していた時代だから、身の安全のためにマンへの思いを封印していたのかもしれない。60歳を過ぎてようやくこの町を訪れた魁夷は、マンの姿を求めて町を歩いたはずだ。私は魁夷が描いた門や街角や塩倉庫を探し出した後も、石畳の道を歩き続けた。その時の私には、町を歩く魁夷の姿が見えていた。その魁夷は、マンの姿を追いながら確かに石畳の道を歩いていた。


イラスト:サカモトセイジ

まつもと たけし●1951年東京生まれ。美術・絵本評論家、作家、絵本学会会長、横浜美術大学客員教授。
母・いわさきちひろの没後、1977年にちひろ美術館・東京、97年に安曇野ちひろ美術館を設立。
同館館長、長野県信濃美術館・東山魁夷館館長を歴任し、現在はちひろ美術館常任顧問。
著書に『東山魁夷と旅するドイツ・オーストリア』(日経新聞出版社)、『母ちひろのぬくもり』(講談社)、絵本に『白い馬』(絵・東山魁夷講談社)など。

(ノジュール2016年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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