[エッセイ]旅の記憶 vol.48

森へ行こう

三谷 龍二

胸の内の、小さな衝動に動かされるように、「森へ行こう」、と思うのだった。大地をどこまでもどこまでもアスファルトで覆い尽くしてしまった現代は、根っこを切られた木のように、人は大地との交流を失い、生命が知らず知らずのうちに失調状態になっているのだと思う。自然を管理し、人間にとって便利なように文明は発達してきたかもしれないが、でももともと自然な生命体である人間は、その反自然な環境の中で暮らしながら、無理を強いられているのだった。

風が枝葉を揺らす音。岩の間から湧き出る水が作る透明な流れ。鳥のさえずりや森の呻(うめき)。日々の暮らしの中では見ることのない、遠い森のことを想う。

でも、森への想い、その自然への憧憬が少しずつこの体の中に蓄積されてくると、乾いた喉が冷たい水を求めるように、「森へ行きたい」、と思うのだった。

3000m級の北アルプスの麓にある松本は、山岳都市と呼ばれている。松本から上高地(かみこうち)まで約一時間。そこから徒歩で一時間ほど行くと明神池(みょうじんいけ)に着き、さらに一時間歩くと、古くから夏の放牧地として使われていた徳沢(とくさわ)に着く。僕はこの明神から徳沢の間の森が大好きで、時々時間を作ってやってくる。この森は豊かな自然に満ちていて、日本でもちょっと特別なところ。この森(特別名勝・特別天然記念物に指定されている)に来て、高い梢の間から落ちてくる光や、どこまでも続く大木の中を歩いていると、体の奥の方から、忘れていた何かが呼び覚まされるように感じるのだった。

徳澤園(とくさわえん)は森を抜けた先に開ける、まるで楽園のような牧草地。その一角に、大きな楡(にれ)の木々が立ち並ぶところがあり、その木に守られるようにして森のレストラン「楡の木料理店」はあった。といってもこれは、たった一回の食事のために特別に用意された野外レストランである。徳沢まで歩いてきた先に、こんなレストランがあったら、という夢想から生まれた料理店なのだ。現実から、フィクションへ。その境が判らないくらい自然に、童話のなかの世界に滑り込んでいた。実はこれ、3年ほど前、長野県を再発見するという企画のなかで実現した料理店なのだが、今になっても鮮明に心に残る、楽しい思い出となった。

寺山修司の言葉に、「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」というのがあるが、それになぞらえて言えば「どんな旅も想像力より遠くへ行ける旅はない」だろう。

叶うなら、空想レストラン「楡の木料理店」へ、もう一度食べに行きたいものだと思う。


イラスト:サカモトセイジ

みたに りゅうじ●木工デザイナー。1952年福井県生まれ。
陶磁器のような普段使いの木の器を作り、家具中心だった木工に新たな分野を開く。
1981年に松本市に工房PERSONASTUDIOを設立、1985年から「クラフトフェアまつもと」「工芸の五月」(いずれも松本市)発足と運営に参加する。
2011年には同市内にギャラリー10㎝を開店。著書に『木の匙』『遠くの町と手と仕事』など。

(ノジュール2016年12月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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