[エッセイ]旅の記憶 vol.56

哲学者の旅

玉村豊男

どこか、ヨーロッパの知らない都市に旅したい。アメリカは空港の通関で行列するのが嫌だから行きたくない。アジアやアフリカに「リゾート感」や「異国感」を求めて旅したいわけでもない。これまで50年間にそのほぼ全域を歩きまわり、私にとって身近な存在であるヨーロッパの、とくに見物したり買物したりする対象のない、特徴のない街を選びたい。北欧あたりに、そんなところはないだろうか。

空港からホテルに直行したら、部屋に入って窓を開ける。その街の空気と、かすかな雑音が流れ込んでくる。それから衣類などを整理して戸棚に納め、シャワーを浴びた後、ソファーに座って飛行機の中で読んでいた本の続きを読む。

若い頃は忙しい旅をしていた。

新しい土地に着くと、それが知らない街であれ知っている街であれ、部屋に荷物を置く間ももどかしく外へ飛び出した。見るもの聞くものすべてが珍しく、暗くなるまで街を歩いた。もちろんホテルで夕食をとるなど考えたこともなく、巷の食堂や居酒屋に紛れ込んで旅をした気分になっていた。

そんな旅を繰り返しながら、頭のなかにはいつも理想の情景があった。その土地のホテルに投宿すると、まず浴衣に着替え、ゆったりと椅子に座って本を読みはじめる……それだけで、外へ出なくても土地の気分や旅の雰囲気は十分に味わえるのだ、というある哲学者の言葉が、ずっと気になっていたのである。私も、いつかそんな旅ができるようになるのだろうか。

私はこの秋に72歳になる。100回以上も海外旅行をし、60ヵ国は訪ねたが、いまでも外国に旅行できる機会があればよろこんで行く。が、さすがに若い頃のようなアドベンチャーはもうできないし、かといって老人どうしのパック旅行も敬遠したい。となると、なんでもないヨーロッパの街の小さなホテルに泊まって、ときどき外へは出るけれども、昼間も半分くらいは部屋の中で過ごし、窓からの風と音で異国の気分を味わうような、哲学者ふうの旅しか残っていないだろう。

ホテルは、高級でもなく、貧乏たらしくもない、中級ホテル。食堂はなくてもよいが、バーは欲しい。本の続きは、飲みながら読みたいから。そこのところが邪魔をして、まだ浴衣を持参する心境には至っていない。


イラスト:サカモトセイジ

たまむら とよお●エッセイスト、画家、ワイナリーオーナー。
1945年東京生まれ。東京大学フランス文学科卒。1972年より文筆業。
2004年より長野県東御市にヴィラデストワイナリー開業。
『パリ 旅の雑学ノート』『隠居志願』など著書多数。

(ノジュール2017年8月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
ご注文はこちら