[エッセイ]旅の記憶 vol.57

ファベイラの輝き

伊東潤

これまでの生涯で最も印象に残った旅といえば、1998年に行った南米ブラジル旅行だ。約一週間の滞在で、行ったところはサン・パウロとリオだけだったが、ブラジルを満喫できた。

ブラジルには太陽が溢れていた。ただしリオにいるのは、隠退したとおぼしきお年寄りばかりで、テレビで見るような、すごいプロポーションの水着ギャルには、ついぞお目に掛かれなかった。

私が関心を持ったのは、ファベイラと呼ばれるスラム街である。ブラジルのそれは平地にあるのではない。山の斜面に張り付くように形成されているのだ。こうしたファベイラが、リオの至るところにある。地元の人によると、犯罪の温床と化しているので決して入ってはいけないという。

私は当時38歳。まだまだ冒険心に溢れていたので、それなら入ってやろうと思った。

1990年に香港に行った際、目の前まで行ったにもかかわらず、九龍城塞に怖くて入れなかったことが悔やまれたので(九龍城塞はその後、すぐに取り壊された)、今度こそはという思いがあった。

あるファベイラの入口まで行くと、意外にも子供や少年が多い。だが油断はできない。私はさりげなく狭い石段を登っていったが、さすがによそ者だと見分けがつくのだろう。擦れ違う人々は皆、怪訝そうな顔で振り返っていく。

少しでも目つきの悪いのに遭遇すると、そこからの展開に想像をめぐらして怖くなる。だが、それでも勇を鼓して石段を登り続けた。念のため小銭以外は持ってこなかったので、銃を突きつけられたら、有り金すべてを出すつもりでいた。

しばらく行くと、眺めのいい場所に出た。ほぼ頂上だ。そこからはリオの海が見えた。しばらく絶景を眺めつつ佇んでいると、突然、英語で話しかけられた。ドキッとして振り向くと、十五歳前後の美しい少年が笑みを浮かべていた。

彼が英語で、「どこから来たの」と聞いてきたので、「Tokyo Japan」と答えると、瞳を輝かせ、「ファンタスティック!僕もいつか行ってみたい」と言うではないか。

しばしの間、少年ととりとめのない会話をし、最後に握手をして別れただけだが、帰途は来た時とは全く違うリラックスした気分に満たされていた。

外部の人間には恐ろしく思える場所でも、人がいて生活がある。そこには犯罪者や悪人ばかりではなく、夢を持った少年もいる。彼が憧れの日本に来られたかどうかは分からないが、あの少年の瞳の輝きが、彼の人生を素晴らしいものにしていると思うのだ。


イラスト:サカモトセイジ

いとう じゅん●歴史小説家。1960年、神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学社会科学部卒業。大手外資系IT企業勤務を経て、外資系企業のマネジメントなどを歴任。
2007年、『武田家滅亡』(角川書店)で作家デビュー。2010年に専業作家となって現在に至る。
代表作に、『国を蹴った男』(講談社)、『巨鯨の海』(光文社)、最新作に『悪左府の女』(文藝春秋)がある。

(ノジュール2017年9月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
ご注文はこちら