[エッセイ]旅の記憶 vol.65

はじめてのふたり旅

小川 糸

母と初めてふたりだけで旅行したのは、私が小学校を卒業したばかりの春先のことだった。今から、もう三十年以上も昔のことになる。それは、小学校卒業記念のふたり旅だった。

実家のあった山形から東京までどうやって行ったのかは思い出せないが、東京から船に乗ったことは覚えている。行き先は、伊豆大島だった。

朝早く着いて、バスに乗り、民宿へ行ってそこで朝食をいただいた。食卓に出されたのはツバキの花の天ぷらで、母は何度も、珍しいねぇ、と言って箸を伸ばした。それから、母とふたり、伊豆大島を観光した。

母と喧嘩をしたのは、その日の午後だった。馬に乗って三原山の火口を見に行くツアーがあり、私はどうしてもそれに乗りたいと言い張った。けれど、母は怖いから嫌だと言う。大人になって振り返ると、そのツアー代金はかなり高かった。結局、私だけが馬に乗り、ひとりで火口を見に行くことになった。

そのツアーが怖かったこと。母の言う通りだった。

係の人が馬を引いてゴツゴツとした山道を登っていくのだが、体が斜めになったり落馬しそうになったり、正直、少しも楽しくなかった。火口のことも、全く記憶にない。ただただ恐怖でいっぱいで、一秒でも早く馬から降りて自分の足で歩きたいと思っていた。おそらく私は、途中から泣きべそをかいていたと思う。

決して短いとは言えないそのツアーを終え、再びスタート地点に戻ると、母が笑顔で迎えてくれた。その姿に、どれだけ安心したことか。

母とは、決して仲がいい親子ではなかったけれど、大人になってからも、たまにふたり旅を計画した。そのたびに大喧嘩を繰り返し、もう二度と母とは旅行に行くまい、と憤慨するのだが、しばらく経つと忘れてしまって、また同じことを繰り返してしまうのだった。

伊豆大島から帰りの船に乗る時、母は港の売店でツバキの苗木を買い、実家に持ち帰った。そしてその苗木を、庭に植えた。三原山が噴火したのは、それから数年後のことだった。

もう、母も、ツバキの木も、実家もすべてなくなってしまったけれど、私の胸にはしっかりと、はじめてのふたり旅の思い出が残されている。


イラスト:サカモトセイジ

小川 糸〈おがわ いと〉
小説家。2008年に出版した『食堂かたつむり』がベストセラーになり、映画化されて話題に。
主な著書に『つるかめ助産院』『ツバキ文具店』『キラキラ共和国』など。

(ノジュール2018年5月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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