[エッセイ]旅の記憶 vol.67

旅は優れた記憶装置である

柏井 壽

歳を重ねるごとに、日々の記憶がどんどん薄れてゆく。

昨日の夜に何を食べたかを思いだせないくらいは、まだいいほうで、いそいそと書店に出かけたものの、何の本を買おうとしていたのかを思い出せないこともよくある。それはわずか十五分ほど前のことなのに、だ。

そうした日常の記憶とは逆に、旅の記憶はどんなに古いことであっても、鮮明に残っているのが不思議だ。

たとえば小学校三年生の夏休み。祖父母のお伴をして「上高地帝国ホテル」に滞在していたときのこと。

朝食に出されたオートミールが、どうしても口に合わなかった。コーンフレークをリクエストしたにもかかわらず、頑迷な祖父の言いつけで出て来たそれは、小学生の嗜好に合うわけもなく、それでも残すと叱られることは分かっていたから、無理やり呑みこんだ。

そのときに心配そうに僕の顔を覗きこんでいたメートル(給仕長)の顔も、食器の絵柄も、座っていた椅子のデザインまでも、すべて鮮明に覚えている。半世紀以上も前のことである。

あるいは、初めてひとり旅をした信州松本でのこと。「タツミ亭」という洋食屋さんに入ってランチを食べた。

そのハンバーグがあまりに美味しくて、ライスが足りなくなって困った顔をしていたのだろう。ウェイトレスの女性が、素知らぬ顔でライスのお代わりをしてくれた。その女性のボーイッシュな顔立ちも、レジでお礼を言ったときに返してくれた優しい笑顔も、けっして忘れることはない。

もちろんこれは、ほんの一例である。数え切れないほどの旅をしてきて、その都度撮った写真を見れば、まざまざと記憶がよみがえってくる。

いったい、この違いは何なんだろう。

日常と非日常の違いだと言い切ってしまえば簡単なことなのだが、どうもそれだけではないように思える。

人はなぜ、旅で出会ったさまざまを鮮明な記憶として残せるのか。

禅問答のようになって恐縮だが、〈それが旅だから〉というしかない。ではなぜ、旅の記憶はクリアなのか。

今でこそ、旅に出れば必ず帰り着くものとされているが、かつての旅は一方通行だった。誰も帰路の安全は保証してくれない。だからこそ今生の別れとして、旅人に餞別を渡したのだ。

時は流れ、誰もが安全を前提として旅するようになっても、刷り込まれたDNAには、旅の危うさが一期一会の四文字とともに刻みこまれている。

なぜ旅は愉しいのか。に対する答えもきっと同じだと思う。二度と繰り返される時間ではない。だから、深く長く記憶に留めておきたい。記憶こそが旅の醍醐味なのである。


イラスト:サカモトセイジ

柏井 壽〈かしわい ひさし〉
1952年京都生まれ。小説家、エッセイスト。
京都市内で歯科医院を開業するかたわら、京都の風物や街、旅や宿のエッセイを数多く執筆。
京都を舞台にした小説「鴨川食堂」はテレビドラマにもなり、好評刊行中。

(ノジュール2018年7月号からの抜粋です。購入希望の方はこちらをご覧ください。)
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